第二回授業概要0414_最終

高良とみ、帆足計、宮腰喜助の訪中

 

【概要】

 1952年5月、高良とみ、帆足計、宮腰喜助の3人に秘書の松山繁、中尾和夫が北京を訪問した。一行は当初ソ連で開催されたモスクワ国際経済会議に出席するために訪ソしたが、同会議に出席した際、中国から帰途新中国を訪問することを提案された。これが戦後最初の日本人の訪中で知られる。

 国際的には朝鮮戦争が停戦に向かっている時期である。日本は前年にサンフランシスコ講和条約に調印し、続けて翌年、日華平和条約に調印した。日本と新中国の「不正常な関係」のはじまった時期でもある。一方で、外務省から旅券発給拒否を受けながら第三国経由の「横滑り」方式で日本人が初めて訪中したことは、日中間の「民間外交」「人民外交」の始まりを象徴した出来事でもあった。特に最初の訪中であることから、日中間の大きな問題が集約されている。

 

【訪中の特徴】

 一行の訪中は、当初中国国際貿易促進委員会の招きによるものであったが、途中からアジア太平洋地域平和会議の招きに切り替えられた。前者が日中民間貿易協定の交渉・調印を目的としたのに対し、後者は同年10月開催の同会議の準備に関わるものである。10月の会議では会議では朝鮮戦争の平和的解決、五大国平和協定締結運動の強化、経済関係、文化交流、婦人の権利と児童の福祉の促進強化などの決議を採択した。日本と中国の戦後の関わりは、貿易など経済関係と平和路線の協調という二つの軸から始められたといっていい。

 一行はアジア太平洋地域平和会議の招きによって中国各地を参加各国の代表とともに歴訪した。経路は北京―武漢―上海―北京―広州である。その間、北京の農村見学や長江の水利工事、上海の紡績工場などを見学し、新中国の現状を学んだ。また、在華邦人との交流もアレンジされたことは、戦争各地に残った日本人の帰国問題を課題としていた高良とみの要求に沿うものであったとともに、翌年の日本赤十字会と中国紅十字会による邦人帰国交渉に連なるものとして重要である。

 

・「日中民間貿易協定」

 日中民間貿易協定はモスクワ国際会議の延長として位置づけられた。当時の情勢下にあって品目を段階分けしたバーター方式としたことが特徴である。交渉は北京滞在中、中国進出口公司で6回行われ、調印では、日本側は高良とみが筆頭となり、以下帆足計、宮腰喜助と続いた。中国側の調印は南漢宸である。

 

・「アジア太平洋地域平和会議準備会議」

 会議への参加は当初予定されていたものではなく、滞在中に中国側から提起されたものである。中国が日本を招請することは元々決まっており、1952年3月には招請状が送られた。日本側代表は準備会議への出席を画策していたが、外務省の旅券発給拒否により見送らざるを得なかった。白羽の矢が立ったのが北京に滞在中の高良とみ、帆足計、宮腰喜助であり、南漢宸から日本代表としての出席を打診された。帆足計だけは公的立場からオブザーバーとしての出席を主張したが、結果的には3名とも正式な日本代表となった。

 

・北京での農村見学

農村見学では村長の話が印象的である。

「私は去年の五月一六日に北京に着いたんです。飛行機の中では正直なところ、どうせ「シナ人」がやることだから、改革をやったといっても大したことはないだろうという気持ちを持っていました。ところがある日、北京郊外の衛門口村という村にいったんです。村役場は余りきれいじゃなかったけれども、そこでその爺さんが挨拶をはじめた。これがすばらしく大きな声で、窓ガラスがビリビリいうくらい、ものすごい元気です。きっとニンニクを食っているせいだろうと思って、だんだん聞いているうちに、この元気はニンニクだけから出るんじゃないということがわかってきた。というのは、その爺さんが自己紹介をやった。

 土地改革前まで、彼は貧農だった。四人家族で、所有地が〇.八畝(日本の約五畝)ところが解放後は土地をもらったというんです。そして選挙で村長になった。衛門口村というのは人口が、三二〇〇人ぐらい。土地改革の前までは、地主が四三戸、富農が一三戸あり、あとは皆貧農だったというんです。

 貧農は今いったように、平均して〇.八畝の土地しかもっていない。地主も大きいのや小さいのやいて、平均一四畝ぐらい持っていた。四人家族の村長はもちろん食えなかった。食えない上に小作料は六割も払っていた。長男は国民党が徴兵で引っぱって行った。実にさんたんたる生活を送ったそうです。そこへさきほどいった神様の軍隊がはいってきたんです。」(松山繁「見てきた新中国の農村」)

 

「抗日戦中は村民の生活は非常に苦しかった。その当時日本の軍国主義は、無理やりに水を飲ませたり、犬をけしかけて噛みつかせたりして、その為に多数の村民が死んだ。又鉄を真赤に燃いて身体にやきつけたりした。其の当時は村人は至る処に逃げて、行方不明や死者は数へきれない位である。日本軍閥は黒人粉と木の皮を喰べさせたので、一〇〇人余りの人は餓死した。我々は苦しい生活をしたが、然し我々をいぢめたのは日本の軍国主義者であって、日本人民ではない。日本人民は我々と一緒になってゐた。今日は我々は毛主席の領導の下に良い生活を送ってゐます。これを御知らせ致したい。」(「中尾和夫日記・文書」)

 

軍国主義はと人民を区分する:「二分論」

 

「僕は農村が大へんきれいになっているので驚いたんです。僕の行った村では必ず診療所がありました。人口四千人に対して十一名ぐらいの衛生員というのがいる。本当の医者が二名ぐらいです。その医者は交代で毎日一回村中の衛生状態を見て廻る義務が課せられている。だからどの農家もぐずぐずしてはいられない。各農家の便所に石灰がふってあるかないかということを医者が見て廻って、ふってないとやられるわけです。井戸は農家毎に掘られているし、その医者が井戸水の検査を絶えずくり返しやっているそうです。だから私の行ったのは五月でしたが、農家の庭先に人糞をまき散して干してあるというような風景は見ることができませんでしたね。

またハエのボク滅運動が展開されているわけです。「ハエは敵だ」というスローガンまである。(笑声)中国には衛生関係のスローガンがずいぶんあるんです。衛生ということは国を守ることなんだという意味のスローガンです。そういう標語が農家の壁にうんとはってある。そういう点でも今の政府は衛生思想に非常な努力を払っているということは認めますね。」(松山、同前)

 

・長江の水利工事

 長江の水害に勝利することは中国人民の念願であったという背景を軸に30万人を動員して人海戦術で工事を行なっていた。うち8万人が解放軍の青年たち、2万人は技術者、20万人は地方の農民、労働者であった。人民が組織というものを理解し、規律を持って工事に志願して参加する姿が特に印象的に記されている。

「この工程の特色としては、そのダムの部分の機械工事、電気工事等に、上海東北の工場労働者が協力しただけでなく、労働者の参加による労農協力の過程において、農民に組織の力を教えたこと、ならびに八万の解放軍の青年たちの協力が筋金となって、難工事を突破したことなどが挙げられる。」(帆足「見てきた中国」)

 

「最初に訪れた沙市郊外の堤防のほとりには古塔があり、屋根には雑草が生い茂り、小鳥の巣となって無数の小鳥がさえずっていた。そのあたりは労働歌のうたごえにみち、ジャン、ジャン、ジャンジャンと銅鑼のひびきは耳をつんざき、ラジオはうたい、胡弓は踊る。その中を何万の青年たちが喚声をあげて土をはこび、地ならしをしている。まるで蟻合戦のような風景である。」(帆足、同上)

 

「一人の青年に『あなたたちの心境は?』とたずねると、すずしい眼をあげて『私の祖父は十年まえ揚子江の洪水で死にました。二人のかわいい妹もそのあとの疫病で亡くしました。私どものこの努力は、父祖数千年にわたる親の仇とたたかっているものと御考え下さい』というけなげな答えであった。私たちはこの言葉をきくと、胸せまる思いがし、せめてこれらの青年たちに、数十万台のトラックを、数十万台のミシンを、自転車を脱穀機を、籾摺機を、農業機械を、D・D・Tを、医薬品を医療機械を輸出することができ、その代りにこの地方でとれた綿花を、米を、麦を、飼料を、大豆を、豚毛を、大豆を、皮革を、桐油を、漆を、そしてまた粘結炭、鉄鉱石、塩等を輸入することができたならば、どれほど彼我両国のために幸福であり、かつ自然なことであろうかと、いまさらのようにつくづく思うのであった。」(帆足、同上)

 

・上海の在留邦人(中尾文書・日記より)

約400名

  • 東北方面から逃げて来た婦人(国民党兵士と結婚し、夫は台湾等に逃れ、上海に残った者、現在は殆ど結婚してゐる。)
  • 技術者
  • 国民党時代に留用された技術者で、上海に逃げて来て、そのまま日本人経営のところに働いてゐる軍医等の特殊技術者
  • 農業者(四家族のみ)

※戦犯は解放直前に日本に送り返した。技術者は国民党時代は強制的留用であったが、解放后は在留は任意であり、帰国は全く自由である。

……

 中共軍が上海に入って来た時は、軍規極めて厳正で、その姿を見て我々は安心して上海に残ることに決心した。生活は全く不自由はない。内地とは、手紙も送金も荷物も自由なので全く心配することはないが、困ることは内地に帰ると再び上海に来れないことである。昨年五月一日のメーデーの時、上海で日本帝国主義者と日本人民とは違ふと云ふ一大運動が行はれたので、それ以来、中国人と日本人は全く親密になった。それ迄は隣組の中でも多少そっけない点があった。最大の楽しみは、日本のラヂオでNHK東京、広島が長短波ともに良く入る。

 現在在留日本人で、生活に困って帰国を希望する者はない。然し、子供の教育の為(現在上海には日本人中学校なし)、或は一時帰国する者は多い。此の費用は約四〇〇万円(当時の人民元レートと思われる)で大したことはないが、困難な点は香港の通過ビザが入手し難いこと、及び香港滞在は一週間しか認められないので、その一週間の中に日本行船がない場合(予定よりも遅れることが多い)に香港で立往生することを恐れている。

 中国側は、帰国を申請すれば、大体一ヶ月でパスポートを呉れる。又、日本に帰って生活が困るかどうか迄調査して呉れる。これは中国側の好意であって、又再度中国に帰ることも許されてゐる。日本側が中国行を許可しないので困ってゐる。

……

 終戦時、満州の牡丹江附近、ジャムス、ハイラル等で日本人の老人、婦人、子供等が関東軍に依り山の中に連れて行かれ、機関銃で多数殺された。生き残った日本人の子供等が相当数牡丹江附近の中国人農家に拾はれて養われてゐる。私(持永氏)は映画撮影に行って、此等の子供達に会ったことがある。

 

【まとめ・課題】

高良、帆足、宮腰らの訪中は、(1)貿易関係の樹立を当初の目的とし、加えて(2)平和会議への関与、(3)新中国の観察が主な内容となった。その過程において、高良が課題としていた在留邦人の帰国問題にも触れることもできた。これ以前、日本から訪中旅行者はなく、新中国の情報は現地から送られる刊行物や帰国者の報告によるところが大きかった。高良らの旅行記には中国を全体的に好意的に見る向きがあり客観的な判断が難しいところだが、少なくとも、文章のテンションから窺える日本世論の中国に対する雰囲気は読み取れる部分はある。また、新中国が外国人に対してどのように自国をアピールしていたかによって、建国直後の目指していた方向性を大まかに窺うこともできそうである。

  課題省略

 

メモ:上海の紡績工場については触れられていない。農村見学など単体で見聞を読むのは簡単だが、以後のRの見聞との連続性は課題。

第二回授業概要0413

・上海の在留邦人(中尾文書・日記より)

約400名

  • 東北方面から逃げて来た婦人(国民党兵士と結婚し、夫は台湾等に逃れ、上海に残った者、現在は殆ど結婚してゐる。)
  • 技術者
  • 国民党時代に留用された技術者で、上海に逃げて来て、そのまま日本人経営のところに働いてゐる軍医等の特殊技術者
  • 農業者(四家族のみ)

※戦犯は解放直前に日本に送り返した。技術者は国民党時代は強制的留用であったが、解放后は在留は任意であり、帰国は全く自由である。

……

 中共軍が上海に入って来た時は、軍規極めて厳正で、その姿を見て我々は安心して上海に残ることに決心した。生活は全く不自由はない。内地とは、手紙も送金も荷物も自由なので全く心配することはないが、困ることは内地に帰ると再び上海に来れないことである。昨年五月一日のメーデーの時、上海で日本帝国主義者と日本人民とは違ふと云ふ一大運動が行はれたので、それ以来、中国人と日本人は全く親密になった。それ迄は隣組の中でも多少そっけない点があった。最大の楽しみは、日本のラヂオでNHK東京、広島が長短波ともに良く入る。

 現在在留日本人で、生活に困って帰国を希望する者はない。然し、子供の教育の為(現在上海には日本人中学校なし)、或は一時帰国する者は多い。此の費用は約四〇〇万円(当時の人民元レートと思われる)で大したことはないが、困難な点は香港の通過ビザが入手し難いこと、及び香港滞在は一週間しか認められないので、その一週間の中に日本行船がない場合(予定よりも遅れることが多い)に香港で立往生することを恐れている。

 中国側は、帰国を申請すれば、大体一ヶ月でパスポートを呉れる。又、日本に帰って生活が困るかどうか迄調査して呉れる。これは中国側の好意であって、又再度中国に帰ることも許されてゐる。日本側が中国行を許可しないので困ってゐる。

……

 終戦時、満州の牡丹江附近、ジャムス、ハイラル等で日本人の老人、婦人、子供等が関東軍に依り山の中に連れて行かれ、機関銃で多数殺された。生き残った日本人の子供等が相当数牡丹江附近の中国人農家に拾はれて養われてゐる。私(持永氏)は映画撮影に行って、此等の子供達に会ったことがある。

 

【まとめ・課題】

高良、帆足、宮腰らの訪中は、(1)貿易関係の樹立を当初の目的とし、加えて(2)平和会議への関与、(3)新中国の観察が主な内容となった。その過程において、高良が課題としていた在留邦人の帰国問題にも触れることもできた。これ以前、日本から訪中旅行者はなく、新中国の情報は現地から送られる刊行物や帰国者の報告によるところが大きかった。高良らの旅行記には中国を全体的に好意的に見る向きがあり客観的な判断が難しいところだが、少なくとも、文章のテンションから窺える日本世論の中国に対する雰囲気は読み取れる部分はある。また、新中国が外国人に対してどのように自国をアピールしていたかによって、建国直後の目指していた方向性を大まかに窺うこともできそうである。

第二回授業概要0412

 

・長江の水利工事

 長江の水害に勝利することは中国人民の念願であったという背景を軸に30万人を動員して人海戦術で工事を行なっていた。うち8万人が解放軍の青年たち、2万人は技術者、20万人は地方の農民、労働者であった。人民が組織というものを理解し、規律を持って工事に志願して参加する姿が特に印象的に記されている。

「この工程の特色としては、そのダムの部分の機械工事、電気工事等に、上海東北の工場労働者が協力しただけでなく、労働者の参加による労農協力の過程において、農民に組織の力を教えたこと、ならびに八万の解放軍の青年たちの協力が筋金となって、難工事を突破したことなどが挙げられる。」(帆足「見てきた中国」)

 

「最初に訪れた沙市郊外の堤防のほとりには古塔があり、屋根には雑草が生い茂り、小鳥の巣となって無数の小鳥がさえずっていた。そのあたりは労働歌のうたごえにみち、ジャン、ジャン、ジャンジャンと銅鑼のひびきは耳をつんざき、ラジオはうたい、胡弓は踊る。その中を何万の青年たちが喚声をあげて土をはこび、地ならしをしている。まるで蟻合戦のような風景である。」(帆足、同上)

 

「一人の青年に『あなたたちの心境は?』とたずねると、すずしい眼をあげて『私の祖父は十年まえ揚子江の洪水で死にました。二人のかわいい妹もそのあとの疫病で亡くしました。私どものこの努力は、父祖数千年にわたる親の仇とたたかっているものと御考え下さい』というけなげな答えであった。私たちはこの言葉をきくと、胸せまる思いがし、せめてこれらの青年たちに、数十万台のトラックを、数十万台のミシンを、自転車を脱穀機を、籾摺機を、農業機械を、D・D・Tを、医薬品を医療機械を輸出することができ、その代りにこの地方でとれた綿花を、米を、麦を、飼料を、大豆を、豚毛を、大豆を、皮革を、桐油を、漆を、そしてまた粘結炭、鉄鉱石、塩等を輸入することができたならば、どれほど彼我両国のために幸福であり、かつ自然なことであろうかと、いまさらのようにつくづく思うのであった。」(帆足、同上)

 

 第二回授業概要0411

【訪中の特徴】

 一行の訪中は、当初中国国際貿易促進委員会の招きによるものであったが、途中からアジア太平洋地域平和会議の招きに切り替えられた。前者が日中民間貿易協定の交渉・調印を目的としたのに対し、後者は同年10月開催の同会議の準備に関わるものである。10月の会議では会議では朝鮮戦争の平和的解決、五大国平和協定締結運動の強化、経済関係、文化交流、婦人の権利と児童の福祉の促進強化などの決議を採択した。日本と中国の戦後の関わりは、貿易など経済関係と平和路線の協調という二つの軸から始められたといっていい。

 一行はアジア太平洋地域平和会議の招きによって中国各地を参加各国の代表とともに歴訪した。経路は北京―武漢―上海―北京―広州である。その間、北京の農村見学や長江の水利工事、上海の紡績工場などを見学し、新中国の現状を学んだ。また、在華邦人との座談会もアレンジされたことは、戦争各地に残った日本人の帰国問題を課題としていた高良とみの要求に沿うものであったとともに、翌年の日本赤十字会と中国紅十字会による邦人帰国交渉に連なるものとして重要である。

 

・北京での農村見学

農村見学では村長の話が印象的である。

「私は去年の五月一六日に北京に着いたんです。飛行機の中では正直なところ、どうせ「シナ人」がやることだから、改革をやったといっても大したことはないだろうという気持ちを持っていました。ところがある日、北京郊外の衛門口村という村にいったんです。村役場は余りきれいじゃなかったけれども、そこでその爺さんが挨拶をはじめた。これがすばらしく大きな声で、窓ガラスがビリビリいうくらい、ものすごい元気です。きっとニンニクを食っているせいだろうと思って、だんだん聞いているうちに、この元気はニンニクだけから出るんじゃないということがわかってきた。というのは、その爺さんが自己紹介をやった。

 土地改革前まで、彼は貧農だった。四人家族で、所有地が〇.八畝(日本の約五畝)ところが解放後は土地をもらったというんです。そして選挙で尊重になった。衛門口村というのは人口が、三二〇〇人ぐらい。土地改革の前までは、地主が四三戸、富農が一三戸あり、あとは皆貧農だったというんです。

 貧農は今いったように、平均して〇.八畝の土地しかもっていない。地主も大きいのや小さいのやいて、平均一四畝ぐらい持っていた。四人家族の村長はもちろん食えなかった。食えない上に小作料は六割も払っていた。長男は国民党が徴兵で引っぱって行った。実にさんたんたる生活を送ったそうです。そこへさきほどいった神様の軍隊がはいってきたんです。」(松山繁「見てきた新中国の農村」)

 

「抗日戦中は村民の生活は非常に苦しかった。その当時日本の軍国主義は、無理やりに水を飲ませたり、犬をけしかけて噛みつかせたりして、その為に多数の村民が死んだ。又鉄を真赤に燃いて身体にやきつけたりした。其の当時は村人は至る処に逃げて、行方不明や死者は数へきれない位である。日本軍閥は黒人粉と木の皮を喰べさせたので、一〇〇人余りの人は餓死した。我々は苦しい生活をしたが、然し我々をいぢめたのは日本の軍国主義者であって、日本人民ではない。日本人民は我々と一緒になってゐた。今日は我々は毛主席の領導の下に良い生活を送ってゐます。これを御知らせ致したい。」(「中尾和夫日記・文書」)

 

「僕は農村が大へんきれいになっているので驚いたんです。僕の行った村では必ず診療所がありました。人口四千人に対して十一名ぐらいの衛生員というのがいる。本当の医者が二名ぐらいです。その医者は交代で毎日一回村中の衛生状態を見て廻る義務が課せられている。だからどの農家もぐずぐずしてはいられない。各農家の便所に石灰がふってあるかないかということを医者が見て廻って、ふってないとやられるわけです。井戸は農家毎に掘られているし、その医者が井戸水の検査を絶えずくり返しやっているそうです。だから私の行ったのは五月でしたが、農家の庭先に人糞をまき散して干してあるというような風景は見ることができませんでしたね。

またハエのボク滅運動が展開されているわけです。「ハエは敵だ」というスローガンまである。(笑声)中国には衛生関係のスローガンがずいぶんあるんです。衛生ということは国を守ことなんだという意味のスローガンです。そういう標語が農家の壁にうんとはってある。そういう点でも今の政府は衛生思想に非常な努力を払っているということは認めますね。」(松山、同前)

 

※レジュメには農村、水利工事、紡績工場の印象的な記述のみ切り出して解説する。最後に記述からの新中国の印象をまとめにしたいが、宿題にして翌週解説でもいいかもしれない。

第二回授業概要0410

高良とみ、帆足計、宮腰喜助の訪中

 

【概要】

 1952年5月、高良とみ、帆足計、宮腰喜助の3人に秘書の松山繁、中尾和夫が北京を訪問した。一行は当初ソ連で開催されたモスクワ国際経済会議に出席するために訪ソしたが、同会議に出席した中国代表雷任民(中国国際貿易促進委員会主席)と会見した際、帰途新中国を訪問することを提案された。これが戦後最初の日本人の訪中で知られる。

 国際的には、1952年は朝鮮戦争が停戦に向かっている時期である。日本は前年にサンフランシスコ講和条約に調印し、続けて翌年、日華平和条約に調印した。日本と新中国の「不正常な関係」のはじまった時期でもある。一方で、外務省から旅券発給拒否を受けながら第三国経由の「横滑り」方式で日本人が初めて訪中したことは、日中間の「民間外交」「人民外交」の始まりを象徴した出来事でもあった。特に最初の訪中であることから、日中間の大きな問題が集約されている印象である。

 

【訪中の特徴】

 一行の訪中は、当初中国国際貿易促進委員会の招きによるものであったが、途中からアジア太平洋地域平和会議の招きに切り替えられた。前者が日中民間貿易協定の交渉・調印を目的としたのに対し、後者は同年10月開催の同会議の準備に関わるものである。10月の会議では会議では朝鮮戦争の平和的解決、五大国平和協定締結運動の強化、経済関係、文化交流、婦人の権利と児童の福祉の促進強化などの決議を採択した。日本と中国の戦後の関わりは、貿易など経済関係と平和路線の協調という二つの軸から始められたといっていい。

 一行はアジア太平洋地域平和会議の招きによって中国各地を参加各国の代表とともに歴訪した。経路は北京―武漢―上海―北京である。

 

・「日中民間貿易協定」

 日中民間貿易協定はモスクワ国際会議の延長として位置づけられた。当時の情勢下にあって品目を段階分けしたバーター方式としたことが特徴である。交渉は北京滞在中、中国進出口公司で6回行われ、調印では、日本側は高良とみが筆頭となり、以下帆足計、宮腰喜助と続いた。中国側の調印は南漢宸である。

・「アジア太平洋地域平和会議準備会議」

 会議への参加は当初予定されていたものではなく、滞在中に中国側から提起されたものである。中国が日本を招請することは元々決まっており、1952年3月には招請状が送られた。日本側代表は準備会議への出席を画策していたが、外務省の旅券発給拒否により見送らざるを得なかった。白羽の矢が立ったのが北京に滞在中の高良とみ、帆足計、宮腰喜助であり、南漢宸から日本代表としての出席を打診された。帆足計だけは公的立場からオブザーバーとしての出席を主張したが、結果的には3名とも正式な日本代表となった。

 

・北京での農村見学

農村見学では村長の話が印象的である。

「抗日戦中は村民の生活は非常に苦しかった。その当時日本の軍国主義は、無理やりに水を飲ませたり、犬をけしかけて噛みつかせたりして、その為に多数の村民が死んだ。又鉄を真赤に燃いて身体にやきつけたりした。其の当時は村人は至る処に逃げて、行方不明や死者は数へきれない位である。日本軍閥は黒人粉と木の皮を喰べさせたので、一〇〇人余りの人は餓死した。我々は苦しい生活をしたが、然し我々をいぢめたのは日本の軍国主義者であって、日本人民ではない。日本人民は我々と一緒になってゐた。今日は我々は毛主席の領導の下に良い生活を送ってゐます。これを御知らせ致したい。」(二分論)

 確認できる限り、戦後日本の訪中旅行者に対して「二分論」(日本の軍閥と人民を区別する考え)が伝えられたのはこの訪中の南漢宸の発言とこの村長の発言が最初である。

 

・長江の水利工事

 長江の水害に対抗することは中国人民の念願であった、という背景を軸に50万人を動員して人海戦術で工事を行なっていた。中には若い女性の兵士もいた。視察に訪れた一行は人民が組織というものを理解し、規律を持って工事に志願して参加する姿を印象的に思った一方で、帆足のように工事インフラの現状を目の当たりにして日本の機械が輸出できればと思い浮かべたりした。

第二回授業概要

【概要】

 1952年5月、高良とみ、帆足計、宮腰喜助の3人に秘書の松山繁、中尾和夫が北京を訪問した。一行は当初ソ連で開催されたモスクワ国際経済会議に出席するために訪ソしたが、同会議に出席した中国代表雷任民(中国国際貿易促進委員会主席)と会見した際、帰途新中国を訪問することを提案された。これが戦後最初の日本人の訪中で知られる。

 国際的には、1952年は朝鮮戦争が停戦に向かっている時期である。日本は前年にサンフランシスコ講和条約に調印し、続けて翌年、日華平和条約に調印した。日本と新中国の「不正常な関係」のはじまった時期でもある。一方で、外務省から旅券発給拒否を受けながら第三国経由の「横滑り」方式で日本人が初めて訪中したことは、日中間の「民間外交」「人民外交」の始まりを象徴した出来事でもあった。

 

【訪中の特徴】

 一行の訪中は、当初中国国際貿易促進委員会の招きによるものであったが、途中からアジア太平洋地域平和会議の招きに切り替えられた。前者が日中民間貿易協定の交渉・調印を目的としたのに対し、後者は同年10月開催の同会議の準備に関わるものであり、日本以外に多国籍の代表が同時に招待された。

 日中民間貿易協定はモスクワ国際会議の延長として調印されるものであった。当時の情勢下にあって品目を段階分けしたバーター方式としたことが特徴である。交渉は北京滞在中、中国進出口公司で6回行われ、調印には高良とみが筆頭となり、以下帆足計、宮腰喜助と続いた。中国側の調印は南漢宸である。

 一行は日中民間貿易協定の調印後、アジア太平洋地域平和会議準備委員会議に日本代表として出席した。そのほか、武漢、上海を訪れた後北京に戻り、広州経由で高良はヨーロッパへ、他5名は日本へ帰国した。(続く)

周久鸿,林庆冬<上海郊区陆行乡大办托儿组织解放妇女劳动力>《财经研究》1958年第7期

周久鸿,林庆冬<上海郊区陆行乡大办托儿组织解放妇女劳动力>《财经研究》1958年第7期

 

「上海郊外、陸行郷の託児組織と婦人の労働力解放」

農業生産が急速に増加している中で労働力が追いつかない現状があり、労働力の潜在力を掘り起こす必要がある。婦人の労働力はそれに足るものであり、託児施設の充実によって婦人の労働力を解放する必要があるが、上海郊外の陸行郷は良い例である。

郊外には人民公社化の運動が起こっているが、人民公社は生産の社会化を実現する組織形態である。生産の社会化と同様に生活組織も社会化されなければならず、婦人の生活の見直しとそれに伴う託児施設の充実が必要である。

 

コメント:生産の増加に適応するための社会の健全化(最適化)に婦人の解放、並びに託児施設の充実というものが組み込まれているという内容である。