高良とみと中国-中国での活動(1)

 高良とみ、帆足計、宮腰喜助らはソ連で合流した後、中国国際貿易促進委員会に招かれ北京へ向かった。この目的は日本と中国の貿易を切り拓くことにあり、6月1日には日中民間貿易協定の調印という形で実を結んだ。一行が日本に帰国した後、衆参両院では「日中貿易促進決議」が可決され、その後日中貿易促進議員連盟が結成された。翌年には同連盟による超党派の中国通商視察議員団が訪中し、第二次日中民間貿易協定が調印された。高良らの訪中は戦後日中貿易打開の契機となったといって間違いない。この時、日中民間貿易協定の交渉において日本側の中心となったのは帆足計である。

構想:高良とみと中国

1.高良とみの人物像

高良とみの自伝、伝記など

 

2.高良とみの中国の関わり

 

 

 

3.日中関係における高良とみの評価とその再検討

中国側の回想録

 

孫平化『中日友好随想録』世界知識出版社、1986(安藤彦太郎訳『日本との30年:中日友好随想録』講談社、1987)

孫平化『私的履歴書』世界知識出版社、1998(『私の履歴書:中国と日本に橋を架けた男』日本経済新聞社、1998)

森住和弘『50年の変遷:孫平化氏に聞く』今日中国出版社、1995

蕭向前『為中日世代友好努力奮闘』江蘇人民出版社、1994(竹内実訳『中日国交回復の記録:永遠の隣国として』サイマル出版会、1997)

王泰平『外交官特派員の回想・あのころの日本と中国』日本僑報社、2004

楊振亜『出使東瀛』上海辞書出版社・漢語大詞典出版社、2007

唐家璇(加藤千洋訳)『勁雨煦風:唐家璇外交回顧録岩波書店、2011

何方『何方自述』明報出版社、2011[内部出版]

郭承敏『ある台湾人の数奇な生涯』明文書房、2014

劉徳有『在日本15年』生活・読書・新知三聯書店、1981(田島淳訳『日本探索15年』サイマル出版会、1982)

呉学文『風雨陰晴:我所経歴的中日関係』世界知識出版社、2002

王泰平『風月同天:話説中日関係』世界知識出版社、2010

周斌『我為中国領導人当翻訳:見証中日外交秘辛』大山文化出版社、2013

江培柱『江培柱文存:対日外交台前幕年后的思考』社会科学文献出版社、2013

張香山『中日関係管窺与見証』当代世界出版社、1998

張香山『回首東瀛』中共党史出版社、2000(鈴木英司訳『日中関係管見与見証』三和書籍、2002)

石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』岩波書店、2010

王泰平『王泰平文存:中日建交前後在東京』社会科学文献出版社、2012(福岡愛子訳『「日中国交回復」日記:外交部の「特派員」が見た日本』勉誠出版、2012)

孫平化『中日友好随想録』遼寧人民出版社、2009(武吉次郎訳『中日友好随想録:孫平化が記録する中日関係』)

韓慶愈『留日70年』学苑出版社、2013

訪中者分野別

議員・政治家・自治

高良とみ村田省蔵や冒頭の松浦周太郎ほか等経済関連の訪中と重複するところあり。パターンとしては自民党親中派プラス野党の超党派が見られる。日共では志賀義雄、徳田龍が徳田球一の遺体を引き取りに行っている。

 

経済

貿易協定の交渉・調印に関わるものが多い。ほか商社の代表が取引のために個別訪中している(白水實、国分勝範)。

 

学術・文化

学術で最初に代表として訪中したのは1954年10月、安倍能成ら。中国側が1952年に訪中した南博の参加を希望していたことから、アジア太平洋平和会議の延長に位置づけた部分があるとも見える。和達清夫気象庁長官、周恩来に直談判し、中国の気象情報提供が承諾された。この代表団は山口喜久一郎ら国会議員団とともに周恩来と会見した。有識者としての発言力に期待されていたことが窺える。

市川猿之助一座は戦後最初の訪中公演(1955年)。翌年に答礼的に梅蘭芳の来日公演が行われた。

文化・学術交流は1954年以降、中国側招請による人民外交とともに活発化したと言える。

 

 

労組・婦人・青年

金子健太、児島博基、小倉金吾は1952年のアジア太平洋地域平和会議に出席するなど、労組は平和運動に重なる部分がある。この3名については平和会議出席に際しての密入国(亡命)か。数年滞在したと思われる。

労組関係関係は数が比較的多い割には、経済、学術に比べて目立った形跡が見られない。一つには旅行記が相対的に少なく活動内容が見えにくいことがある。あるいは純粋に中国のイデオロギーとの“共鳴”の上にあったものとして“積み重ね”的な交流の“かさ増し”=日中友好ムード醸成としての意味合いが強かったか。

婦人の訪中は全体として多くはないが、1954年10月の国慶節で中国側は平塚らいてうの参加を希望していた。平塚は訪中しなかったが、団長は神近市子、団員に俳優の岸輝子が入るなど多彩な顔ぶれとなった。

労組、婦人ともに第三国での国際会議の後中国に立ち寄るというケースが目立つ。1954年10月の国慶節にイタリア、フランス労働者大会に出席した相沢重明、神山清喜(数十名)、同年スイスの世界母親大会に出席した河崎なつがこれにあたる。

 

 

平和・独立

1952年のアジア太平洋地域平和会議への出席を皮切りに、アジア諸国民会議、アジアアフリカ連帯委員会への出席など平和擁護、平和主義を標榜して訪中したケースがある。中国側の招請団体は中国保衛和平委員会(郭沫若主席)が主体となる。

西園寺公一は1958年から中国に長期滞在するが、それ以前にもウィーンの平和会議の途上で訪中していた。1953年にスターリン賞を受賞した大山郁夫が周恩来から国交正常化の希望を聞いている。平和主義の有識者に対する積極的な働きかけが窺える。

 

 

協議(邦人帰国、漁業、遺骨送還)

 

 

 

日中文化交流協会の「申し合わせ」期

日中文化交流協会の文化交流に関する中国側との文書は、1956年の「申し合わせ」以降、毎年「声明」の形で調印されている。1957年以降は中島健蔵夫妻が訪中して北京で調印する形で、中島の定例訪中と言ってもよさそうだ。1967年が最後の「声明」調印だが、この時だけは中島ではなく白石凡が「覚書」という形で調印している。文化大革命で中国との関わり方が難しい中、互いの立場を確認する意味合いのものにとどめ具体的な交流協定にすることを避けた狙いが窺える。また、1958年は中島の訪中も「声明」もない。この年は長崎国旗事件で中国側が頑なな態度に出た時で、「人民日報」社説で文化交流も影響を受けざるを得ないと表明していた。その態度の行き先が定まらない時期で中国側も招請を見送らざるを得なかったと思われる。

「声明」では日中文化交流協会創立後、まもなく岸信介内閣を迎えたことにより日本政府の中国敵視政策、対米追従姿勢を批判する主旨が一貫している。その背景のもと、日本文化界は中国と友好促進に努めると確認し、続いて具体的な交流項目に言及している。

1967年以後、日中文化交流協会の活動が顕著な役割を果たすのは1971年のピンポン外交、上海舞踊団の来日なる。ここまでの日中文化交流協会の歴史はある意味「申し合わせ」期として纏められるかもしれない。

高良とみ接待の内容(北京、中国国貿促)0517

日中民間貿易協定の交渉経過には触れない。

 

接待体制

5月15日、ソ連イルクーツクから空路北京に降りた一行を出迎えたのは中国国際貿易促進委員会(以下中国国貿促)の秘書長冀朝鼎、男性通訳2名、女性通訳2名である。通訳は「何れも二〇才位で、日本語は仲々うまい」とのことである。

中国国貿促で一行の接待にあたったのは、冀朝鼎、夏暁、ほか数名の通訳である。冀は中国国貿促の秘書長であるとともに、中国銀行の副経理、モスクワ国際経済会議の中国代表でもあった。具体的な接待業務にあたる工作員というよりは行程全体の統括責任者であったことがわかる。冀は5月15日、イルクーツクから空路北京へ降りた一行の出迎えにも通訳(男性2名、女性2名)の通訳を伴って現れている。日本代表との連絡を担当したのは夏暁で、複数名の通訳をまとめる随行担当者であったと考えられる。

最初の宿泊先は中国国貿促の仮接待宿舎(北京西単頭髪胡同33号)で、5月24日に中国国貿促所有の接待所(鉄筋コンクリート3階建て、28部屋)に移動した。移動後は一人一室が部屋割され、室内設備はトイレ、洗面所、別室、ロッカーがあり、「バスは実に立派」なものとなっている。

5月28日以降は招請団体が中国国貿促からアジア太平洋地域平和会議に引き継がれる。但し、冀、夏、通訳による接待体制は変わらなかった。

 

通訳の名前:李、林、肖、孫

 

 

市内見学

 北海公園(5/16)

 歴史博物館、故宮博物院(5/17)

 万寿山(5/18)

天壇(5/19)

※「寺僧より新中国の宗教、寺院経営に就いて説明を聞く。

  全建物の所有者は人民政府である。寺院の修繕は国家の費用で行はれる。寺の収入は、所有家作家賃及び信者の寄進である。信仰は全く自由である。

解放前は、ラマ僧ラマ教は人から軽べつされ、生活は苦しかったが、解放后は修繕費は政府より支給され、且家賃を取ることを許されたので生活は保障された。政治協商会議にも我々の代表を出してゐる。

僧侶は、チベット語と漢文で読経する。僧侶の数は、本寺は八四名で、全部蒙古人である。

解放前は、国民党軍隊に家屋を接収されてゐて、家賃は全然入らなかった。家作の数は、約七〇〇軒である。旧一月三〇日、二月一日の大祭日には、信者が総て集る。葬式には出かけるが、結婚式には行かない。僧侶は肉食するが妻帯しない。」

 中山公園(5/23)

  故宮博物院文華殿「美帝国主義最近戦罰行展覧会」(5/24)

 

[映画・舞台鑑賞]

 北京電影制片廠:「中国民族第団結」(5/16)

                             「鋼鉄戦士」(5/18)

                             「白毛女」(5/19)

 中和劇院:首都実験京劇院出演「揚排風」「三国志」「西遊記」(5/25)

 中央戯劇院実験劇場:崔承喜・舞踊研究班「白檀復仇記」ほか(5/27)

 

以上まで、中国国貿促招請による接待である。以下、5月28日よりアジア太平洋地域平和会議による接待である。

高良の旅行の特徴0516

 

 5月25日、イルツークスから空路北京へ到着した。北京での滞在は3週間程度で、この間に日中民間貿易協定の交渉と調印、アジア太平洋地域平和会議準備会に出席した。また、招請団体が中国国際貿易促進委員会から平和会議に引き継がれた後には郊外の農村訪問も行っている。以後、国内の都市間移動は武昌―沙市、上海―広州を除いてすべて飛行機である。

 6月9日、武昌へ移動する。アジア太平洋地域平和会議に出席した各国代表と行程を共にする団体旅行の始まりである。一行は漢口、沙市などを訪問し、長江の水利工事を見学した。

 6月15日、上海へ移動する。杭州へ2泊3日の旅行を挟み、上海近辺には6月22日まで滞在した。上海では紡績工場など軽工業の見学が多く組み込まれ、併設の託児所なども見学している。

 6月22日、再度北京へ戻る。香港通過のビザ申請を行う傍ら、北京大学中国人民大学を見学する。中国全国文芸家連合会の馮雪峰と魯迅全集についても打ち合わせを行う。

 6月29日、武昌を経由して広州へ移動する。到着日は中山記念館、七十二烈士墓、バンドを見学する。

 6月30日、国境を通過し香港へ。

 

高良とみらの行程は大きく以下の三つに分けることができる。

  • 中国国際貿易促進委員会による招請・接待(北京)

この期間の滞在は、モスクワ国際経済会議の理念の延長とされる日中民間貿易協定の交渉・調印に主眼が置かれていた。見学は天安門故宮頤和園、天壇など一般的な観光地のみが主である。

  • アジア太平洋地域平和会議による招請・団体旅行(北京―武漢―上海―北京)

日中民間貿易協定の交渉が締結の目処を迎える頃、日本代表の招請団体はアジア太平洋地域平和会議に引き継がれた。以降は、北京での同会議準備会に出席することが最主要目的となり、その後、北京―武漢、―上海―北京を訪問する。これは準備会に出席した各国代表による団体旅行であり、行程はある程度典型的な中国旅行のパターンが踏襲されたものと思われる。四川や東北は含まれていない。

もう少しアジア太平洋地域平和会議に招請が引き継がれて以降の旅行について述べたい。

 北京では郊外の農村見学が設定され、村長の話を聞いたり座談会が設けられたりしている。村長の話からは戦中日本軍の罪業を語る場面もあるが、日本軍閥と日本人民は区別するという二分論を思わせる表現も見られる。ここでの発言は高良ほか数名の旅行記に同様に記述されている。生産量の向上や解放後の農地配分など、細かい数字が記憶され語られる。

 武漢―漢口―沙市では長江の水利工事を見学している。数十万の志願者が数万の解放軍の統率のもと組織というものを理解し、中国の歴史上念願である長江の水害対策を人民の手によって完成させるというエピソードが印象付けられている。ここで登場し、発言するのは現地の管理にあたる解放軍幹部のほか、現場の労働模範である。工事現場に限ったことではないが、女性の労働者が注目されているのも特徴的である。

 上海では紡績工場の見学が多い。労働者の工賃や職場環境、福利厚生などの事情が語られる。ここでも工場責任者のほか労働模範が語る。生産量や工賃、物価など細かい数字が報告されるのは農村見学と同じ特徴が見られた。併設された託児所の見学も特徴的である。北京でも託児所の訪問はあった(北海)が、女性労働者の働きやすい環境が強調されている印象を受ける。

 北京に戻って以降は、万里の長城(八達嶺)を見学したほか、北京大学中国人民大学を訪問している。大学の教育理念が国の方向性と合致していることを印象付けられている。

  • 出境まで(北京―広州―香港)

団体旅行を終えて北京に戻った一行は、帰国ビザの申請をする傍ら、万里の長城(八達嶺)の見学、北京大学中国人民大学の訪問をしている。空路、武漢経由で広州へ行き、そこでは中山記念館、七十二烈士墓、バンドを見学した。バンドでは水上生活者も目に入ったようである。

 

その他:同年5月のメーデー闘争が称賛される場面が見受けられる。

    各地で在華邦人と接触する場面がある。北京では座談会、東安市場で、長江の工事現場では戦犯、上海では持永、森川(映画関係者)。北京の座談会、上海の二人を除いては旅行記の記述にある限り偶然の遭遇であったようである。

 

バックアップと保存

前回アップロードしたRの整理分が消えていた。原因は不明。不幸中の幸で前回は進行が遅かった。icloudとOnedrive両方でのバックアップを常にして、icloudのファイルを更新、保存するようにしたい。