アジア太平洋地域平和会議について(1)

 1952年に日本人として初めて訪中した高良とみ、帆足計、宮腰喜助は第一次民間貿易協定の調印のほか、アジア太平洋地域平和会議準備会議にも日本代表として出席した。アジア太平洋地域平和会議は同年10月に北京で開催されたものであり、日本から亀田東俉、中村勘右衛門、南博らが参加している。

 

アジア太平洋地域平和会議、北京開催の経緯

 アジア太平洋地域平和会議は戦後の世界平和擁護運動の一環である。1949年2月、世界文化工作者平和擁護国際連絡委員会、国際民主婦人連合会、及び一部の文化界、政界から世界平和擁護大会の開催が呼びかけられた。世界各界の平和愛好者に参加が呼び掛けられると、中国共産党もこれに応じ、中華全国総工会、中華全国民主婦女連合会、中国学術工作者協会、中国科学工作者協会などから40名の代表団を選出した。団長は郭沫若、副団長は劉寧一、馬寅初、秘書長は銭俊瑞であった。世界平和擁護大会は同年4月20日から25日まで、フランスのパリとチェコスロバキアプラハで同時開催され、72カ国、10の国際団体の2005名が参加した。会議上、中国代表団は侵略戦争の反対、民主平和の願いを表明した。

 中国共産党は同年9月、中国人民政治協商会議第一回全体会議で《中国人民政治協商会議共同綱領》を採択し、「中華人民共和国は、世界の平和と自由を愛するすべての国家と人民と共同し、まずはソ連、各人民民主国家と圧迫されている民族と共同し、国際平和民主陣営の方面に立ち、共に帝国主義侵略に反対し、世界の恒久的な平和を保障する」「中華人民共和国外交政策の原則は、本国の独立、自由、領土主権の保全を保障し、国際的な恒久、平和、各国人民間の友好協力を擁護し、帝国主義の侵略政策と戦争政策に反対する」としている。新中国の外交方針は、独立自主の平和外交と世界平和擁護、侵略戦争への反対を基調とすることを明確にしたのである。新中国成立の翌10月2日には中国世界平和擁護大会が北京で開催され、そこでは中国世界平和擁護大会委員会の成立するとともに、《中国世界平和大会宣言》が採択された。翌3年には中央政府より、上海、南京、天津、広州、漢口、重慶西安瀋陽、混迷、迪化、大連などに世界平和大会工作委員会分会が設立されることが決定された。

 第2回世界平和擁護大会は1950年11月16日、ポーランドワルシャワで開催された。そこでは世界平和理事会の成立が決定され、中国も理事国の一つとなった。郭沫若宋慶齢、馬寅初、劉寧一、蕭三、李徳全、章伯鈞、蔡廷鍇、廖承志、呉宗耀らが最初の理事に当選し、郭沫若は世界平和理事会の副主席に就任した。

 1951年、日本は所謂「片面講和」と呼ばれたサンフランシスコ講和条約を締結し、翌年にはアメリカとの間で日米安全保障条を締結した。朝鮮戦争は泥沼化し、インドシナでは反植民地運動が頻発した。同年10月、全インド平和理事会から世界平和理事会に、中国でのアジア太平洋地域平和会議の開催が提案された。11月には世界平和理事会リーン会議で《対日単独講和に関する決議》が採択され、アジア太平洋地域平和会議の開催が再度提起されると、日本問題の平和的解決による世界平和の脅威排除が重要な課題として挙げられるようになった。1952年2月、周恩来宋慶齢をトップとする発起委員5名を立て、中国での会議開催に同意する旨を伝えた。3月には宋慶齢郭沫若、彭真、陳叔通、李四光、馬寅初、張奚若、劉寧一、蔡暢、茅盾、廖承志の連盟でアジア太平洋地域の各国の平和愛好人士を招請し、会議の開催を呼び掛けた。彼らの起草による《アジア太平洋地域平和会議発起書》には、会議の任務として「緊密に結束してアメリカによる日本の再武装に反対し、アジア太平洋地域の安全を守り、いかなる国家の他国の内政への干渉も反対し、国家主権の独立と保全を守り、制度の異なる国家の平和共存を保証し、既存の衝突を平和的に解決することを主張し続ける。以って各国間の正常な貿易関係と文化交流を回復、発展させる」としている。北京開催のアジア太平洋平和会議は、反植民地支配と人民国家の主権擁護を根底とする世界平和を基軸としていた。しかしその矛先は、朝鮮戦争を背景として、サンフランシスコ講和条約により全面講話を放棄した日本、ないしは日米安全保障条約によって日本の再武装を企てるアメリカに向けられたのである。