1958年の日誌より 続き

1958年10月の訪中日誌によれば、日本の人員は中川、千田、石井、水沢、谷、白土である。ホテルの部屋割りを見ると、中川、石井の2名が一人部屋、千田と白土が同室、水沢と谷が同室となっている。おそらく画家である中川と石井は代表団の核を為す人物で、水沢と谷は実務担当者、白土も中国側との接待上の折衝を担当する日本側窓口の実務担当である。千田は演劇人で、日本側窓口団体の代表的な立場でもある。訪問が美術メインであること、訪中の日本側まとめ役の代表であることから、事務担当の白土と同室であったのだろう。

中国側の工作者にKNOKSという団体の人物がいるが、郭労為などの名前から見るに中国人民対外文化協会のことで間違いないと思われる。広州では郭のほか、広州KNOKS、国美術家協会広州分会の人物が出迎えに現れる。広州での歓迎招宴も現地の美術家協会によるものだ。

代表団の訪中目的は大きく二つある。一つは10月1日の国慶節記念行事参加。もう一つは世界文化名人記念行事の尾形光琳展の開幕式参加だ。前者の国慶節記念行事に招かれたのは他にも多数の団体がある。入口である広州では平野義太郎など他の団体と顔を合わせることもあった。後者は日本の文化名人から尾形光琳が選ばれた経緯はなんだったのか、日本側とどのような折衝があったのか検討の余地があるだろう。谷という人物(美術史家)が東博の所属であることから、協力したのは東博であることは想像される。併せて代表団の編成経緯も検討したい。

広州の招宴では早速「敵視政策をとる岸政府と善意の日本人民とは、はっきり区別する」(広州KNOKS楊氏の発言)と言明される。後に北京でも繰り返し同様の趣旨を述べられることになるが、中国側が日本の代表を招待するにあたっての最優先の原則として提示されていたことが窺われる。

飛行機に乗り、武漢で昼食を挟んで北京に到着すると、多くの出迎えがいる。その中に西園寺公一も混じっていた。西園寺はこの後しばしば白土を訪ね食事をともにしたりする。各日本の代表が集まって名刺交換を行なった際には「こんなところで名刺交換しなければ顔と名前もわからないほど日本の友好運動は遅れているのか」と一喝したという。

一行の滞在予定は北京で決定された。滞在予定どころか、メインの目的の一つである尾形光琳の展覧会の会期も北京で連絡されたようである。開幕式の日程のほか、前後の西安旅行などの日程も含め、日本出立以前に決まっていたことはほとんどなかったのではないかと思われる。ある夜には9時頃郭氏が訪ねてきて、総評と総工会の共同声明調印が深夜1時から行われるとのことであった。それに千田氏が代表して出席したとのことである。

一行は政治的話題には疎かったようで、中川などは帰国後にその旨に触れている。千田は前述の共同声明調印のことは団員には報告することなく、極力政治的な話題には触れないようにしていた。また日本の他の団体より、東京での国民大会に共同メッセージを送る旨相談すると、千田は団員に「千田が勝手やったことと言ってくれて構わない」と説明した。日中友好運動が日本の国民運動に紐付くものであることに対する、千田と他の団員との温度差が窺われる。白土はこれに対して「いささかどうかと思う」「絶好の政治討論の場を逸した気持」としている。また、団員は美術にこそ関心あれど現代中国の事情には関心が薄かった。特に工業や農業という中国が最もアピールしたかったであろう分野には疎く、時は「大躍進」の時期であったが、中国側がわざわざ予定に組み入れたそれらの講義を聴講することを相当渋ったようである。結局これは中国側の厳として譲らない態度に渋々了承したが、この時の中国側の態度にも、当時の中国が見せたかったものの優先度が窺われる。

旅行において団員は一定の自由行動が許されていたようである。例えば故宮の見学後白土は団を離れて一人散策しているし、文房具その他の買い物なども不便はないと記している。