R全体を通じてみられる1950年代中国旅行の特徴(仮)

訪問都市について

 香港経由で、広州―北京、という経路が最多のパターンである。飛行機、列車いずれにしても武漢を中継地にすることがほとんどである。

 広州、北京のほか、ほぼ必ず訪問するのは上海である。次いで四川と東北のいずれか、あるいは両方である。東北はほとんどが鞍山、瀋陽、撫順である。一部に敦煌、太原、西安内蒙古など上記以外の都市も見られるが、個別に日本側から希望が出されたケースが多い(敦煌西安⇨考古学代表団、太原⇨野上弥生子など)。

 

訪問・参観の場所

 北京では故宮、歴史博物館、頤和園、天壇、北海、万里の長城へ行ったという報告がよく見られる。いずれも一般的な観光地である。ほか、託児所の見学、郊外の農村見学がアレンジされることもある。

 上海では紡績工場が多い。生産状況や労働者の生活・所得の状況について説明を受けたり、労働模範から話を聞くというケースが見られる。工場に附設された託児所を見学したりするケースも多い。

 東北では重工業の現状を見学するケースが多い。ここでも労働模範と交流する機会が設けられる。女性労働者を顕彰する印象がある。撫順の戦犯管理所などは日本人にとって関心ある所だろうが、見学・接触は少ない。四川は人民公社、農村の見学が多い。武漢では長江の水利工事が強調されることが多く、長江大橋の建設や、それ以前は歩いて川を渡るなど、中国の水害を制圧することへの国の威信を表しているような印象である。広州では農民運動講習所と水上生活者(蛋民)の生活が見学先として挙げられる。

 全体を通して、特に東北、上海などではかつての戦争を思い起こさせることが多い。しかし、以上のような行程は必ずしも日本人に焦点をあてた案内先とは言い切れない部分もあるため、アレンジ側にそうした意図があったかどうかはわからない。

 

人的交流

 北京では招請元の指導者との会見が入ることが多い。ほか代表団の性格によって関係者との交流がアレンジされる(作家交流など)。周恩来など国家指導者との会見も多いが、周恩来の都合によりアレンジされないこともある。国家行事に出席した際は他国の代表とともに挨拶程度の接触が行われることもある。

 北京、上海いずれにおいても現地日本人との接触の機会があったりする。発言は解放軍を「神の軍隊」と讃えるものや、新中国での不自由ない暮らしを強調するものが多い。日本人の接触は、中国側がアレンジした座談会形式のものと、直接ホテルまで訪ねてくるケースとある。いずれも新中国の生活に満足し、帰国を必ずしも望まない姿勢が共通するが、前者においては具体的な生活水準(物価や給料など)についても言及するところが、農村の村長や工場の労働模範の発言に似ている。

 早い段階から日本の軍閥と日本人民を区別する「二分論」に通じる発言が見られる。オフィシャルな会談と農村見学などで接触する現地住民両方に共通している。

 

招請団体

 代表的な人民団体が主体となり、国際的なイベントが行われる際はその主催団体が招請元となることもある。代表的な人民団体としては、以下のものが挙げられる(括弧内は日本側が認識することが多い代表者)。

中国人民外交学会(張奚若)、中国人民対外文化協会(陽翰笙)、中国国際貿易促進委員会(南漢宸、雷任民)、中国科学院(郭沫若)、中華全国婦女連合会(李徳全)、中華全国総工会(劉寧一)、中国保衛和平委員会(廖承志)

接待にあたっては、工作員が団体間を横断して業務にあたることもある。例えば孫平化や随行通訳などがそれにあたる。