訪中者分野別

議員・政治家・自治

高良とみ村田省蔵や冒頭の松浦周太郎ほか等経済関連の訪中と重複するところあり。パターンとしては自民党親中派プラス野党の超党派が見られる。日共では志賀義雄、徳田龍が徳田球一の遺体を引き取りに行っている。

 

経済

貿易協定の交渉・調印に関わるものが多い。ほか商社の代表が取引のために個別訪中している(白水實、国分勝範)。

 

学術・文化

学術で最初に代表として訪中したのは1954年10月、安倍能成ら。中国側が1952年に訪中した南博の参加を希望していたことから、アジア太平洋平和会議の延長に位置づけた部分があるとも見える。和達清夫気象庁長官、周恩来に直談判し、中国の気象情報提供が承諾された。この代表団は山口喜久一郎ら国会議員団とともに周恩来と会見した。有識者としての発言力に期待されていたことが窺える。

市川猿之助一座は戦後最初の訪中公演(1955年)。翌年に答礼的に梅蘭芳の来日公演が行われた。

文化・学術交流は1954年以降、中国側招請による人民外交とともに活発化したと言える。

 

 

労組・婦人・青年

金子健太、児島博基、小倉金吾は1952年のアジア太平洋地域平和会議に出席するなど、労組は平和運動に重なる部分がある。この3名については平和会議出席に際しての密入国(亡命)か。数年滞在したと思われる。

労組関係関係は数が比較的多い割には、経済、学術に比べて目立った形跡が見られない。一つには旅行記が相対的に少なく活動内容が見えにくいことがある。あるいは純粋に中国のイデオロギーとの“共鳴”の上にあったものとして“積み重ね”的な交流の“かさ増し”=日中友好ムード醸成としての意味合いが強かったか。

婦人の訪中は全体として多くはないが、1954年10月の国慶節で中国側は平塚らいてうの参加を希望していた。平塚は訪中しなかったが、団長は神近市子、団員に俳優の岸輝子が入るなど多彩な顔ぶれとなった。

労組、婦人ともに第三国での国際会議の後中国に立ち寄るというケースが目立つ。1954年10月の国慶節にイタリア、フランス労働者大会に出席した相沢重明、神山清喜(数十名)、同年スイスの世界母親大会に出席した河崎なつがこれにあたる。

 

 

平和・独立

1952年のアジア太平洋地域平和会議への出席を皮切りに、アジア諸国民会議、アジアアフリカ連帯委員会への出席など平和擁護、平和主義を標榜して訪中したケースがある。中国側の招請団体は中国保衛和平委員会(郭沫若主席)が主体となる。

西園寺公一は1958年から中国に長期滞在するが、それ以前にもウィーンの平和会議の途上で訪中していた。1953年にスターリン賞を受賞した大山郁夫が周恩来から国交正常化の希望を聞いている。平和主義の有識者に対する積極的な働きかけが窺える。

 

 

協議(邦人帰国、漁業、遺骨送還)